昭和42年12月11日 朝の御理解


 信心をさして頂きまして一番最高のもの、又それが最終のものでもありましょう、信心、真心、神心となりて人を助けてやれという風に頂いとる神心。信心が段々神様を信ずる力が強うなる信ずる心、真心が強うなる。本当に真の心、真心。最後に神心、神の心、神心、神心となりて人を助けよ。その神心という事は、可愛いと思う心が神心じゃと、こう仰る。可愛いと思う心が神心と仰る、そういう心は誰の心の中にでもある、誰の心の中にもある。その神心がお互いの我情我欲の為に出てこないのである。心の底に、そういう神心というものが持っておる。そういう神心をいよいよ表面に出すというか、我情我欲を取っていくにしたがって神心が段々光を放ってくるというか、そういう私はおかげを頂かなければならぬ。
 よく私は、お話の例にとります蜘蛛の糸にというねえ、あの「   」きますあの漢陀羅という、それこそ大悪人、そういう大悪人というあらゆる罪を犯したという大悪人の心の中にでも一匹の蜘蛛を助けよう助けようとする心、そういう心が神心です。ですから、そういう極悪非道のといわれる人間の心の中にでも神心というものはあるという事、ねえ。その神心というのが信心によってです、教えに基づいてです、段々神心が現れてくる神心があるもの。その神心が段々おかげを頂いてくる、神心となりて人を助けてやれという人が助かるという程しの神心というのは本当に尊いものであると、こう思う。
 お互い人間だから、人間心でいうと、いやそれまでの事。場合によっては、それは人間の方がよしとされる様な場合ですらあるのです。いや神心を使う為に、却って、その人非人だと言われる様な場合すらがあるのです。神心というのは、私は一匹の蜘蛛の上にでも使わしてもらう可愛いものじゃと、こう言う。その可愛そうなという、そういう心が神心であるけれども、私は今日皆さんに、言わば始めて聞いてもらう。私も始めてハアー成程そういう心を神心というのじゃという神心を聞いて頂きたいと思うのです。神心というのはねえ、偉大な心、豊かな心、例えば具体的に、ねえ、お話を致しますと、こういう様な事になるのです。
 夕べ、お月次祭の後のお説教の中に申しましたが、福岡に後藤という小児科が、先生が、私共が福岡に居ります時分は小さい病院だった。ご夫婦共、お医者さんで、もう実に行き届いた、実に丁寧な奥さんが大体、大変有名な甘木の教会の御信者さんである、そして後藤先生とご一緒になられてから、お二人とささやかな病院を開かれた。そして大変おかげを頂いてから、どうどうたる小児科病院がでけた。その事は、私行きませんからお話を聞いただけでございますけれども、その当時に私、長浜町におります。先生方がフナキに電車通りにおられた頃の事に、昨日のお話の中にございますように、私は当時の壱万円という金でございますから、大金でございますねえ。二十年前の壱万円でございますから、それを私に貸して下さった。どうにもこうにものっぴきならない時に後藤先生が貸して下さった。そしてお払いがなかなか出来ませずに、そして私が椛目に帰って来た頃には、まあ忘れておられたはずはないけれども、一辺も勿論催促を受けた事もございませんでしたが、もうあれにやったと思うてという風に思うておられたのかもしれません。何回もお断わりに行きましたけれども、そう何辺も何辺も同じ事をお断りに行かれない。それで私は、ある時秋永先生のところに断りの手紙を書いてあちらへ商売で行かれた時に是非寄って、この手紙を渡して下さいと言ってお願いしておったんですけれども、手紙は実際は後藤先生所へは届かなかった。「   」おかげを頂くようになってから大掃除か何かの時に後藤先生宛ての私の書いた手紙がある。その時秋永先生が始めて思い出したと言うんですから呑気な人である。言うなら私がお断わりの手紙を書いておる。だからこれは親先生に送らせてはでけんと思うてから、だから、これは秋永先生の家のもの、家、まあ家の言うなら私がね、段々おかげを頂きゃ、そういうものが宝になると思うですよ。取っておくと言うとりましたが、そういうその時代段々椛目でおかげを頂いて、それこそ一万、二万の金にはどうにでもおかげを頂くという風な時代、私の心の中に何時も、それは忘れていた事でもない、忘れられとる事でもないけれども、私は決してお払いに参りませんでしたね。
 こういう例はいくらもございます。久留米に、いや福岡に馬出?という所に商売の取引の、これも本当に義理のある、意味のあるおかげで、それをお払いしてないというのは、本当にあれは義理も人情もないやつかと言われる様な筋合いのお金でした。これは善導寺の元総代をしておられた河野さんという方に借っておりました。借金の場合もそうでした。それはもう本当に、そのそれをお返ししないんですから、それは人非人と言われても仕方がないのですけれども、私の心の中には確かに人非人的な心、人非人というのは人にあらずという心、もう人ではないという心。これは普通、もうあれは人間の面かぶっとるだけだ。あれは、もう心は鬼か蛇かだという時に使いますのが人非人。私が言う人非人はですねえ、そうではない。もう人ではない心。言うなら、もうひとつ上の最高の心。所謂神心。払わんと言うのじゃない。神様にお願いさせて頂く事は、ああいう親切をもって貸して下さったんだ。ああして私に同情して下さったからこそ、あの時分の大金の壱万円をそれこそ証文書ひとつ取らずに貸してくださったんだ。そういう言わばその人の真心というか親切心という、その心を踏みにじるのではなくてですね、そういう心を使われたのであるから、そういう心に対してでもおかげを受けてもらわなければならないという事である。
 先日、私は善導寺にバスでお参りさせて頂いた時に、途中から丁度久富正義さんが送って下さる。又、帰りも丁度用を済まされ帰られ、二十分ばかりすりゃ帰ってくるからと言われるので、私、原さんの所に一寸寄った。そしたら、原さんはお留守でご主人がおられました。嫁ごが、すぐ美味しいお茶を入れてくれました。その私の一服のお茶を頂かして頂いてから、帰ってすぐお届け帳に原良子というお届けをさして頂いた。御大師様の御真言、唱え言葉の中に、この功徳をもって遍く史上に及ぼし、ね、この功徳をもって遍く史上に及ぼし、このお茶一服がですねえ、私に真心をもって美しい心で、おそらくあすこにある一番最高のお茶を本当に美味しゅう美味しゅうと思うて入れたお茶であったろうと思います。大変美味しいお茶でしたですから、その功徳をもって、私が今、良子さんにとお礼にという訳じゃないけれども、その功徳をもって私に恵んで下さった、この功徳をもってこれ遍く史上に及ぼしていく様なおかげにならなければならないと思うから、私はお届けさせて頂いた、ねえ。
 私に、例えば困っておる時にお金を貸して下さった。この功徳をもって、この人が助かって下さる事を私は祈り願わして頂いた。又ですね、これは私の心ではなかったです、神様が、例えばそういうものを、さあー早く払いに行け、さあ持って行けという風に教えられなかったですね。必ず、ねえ必ずお払いをする時期が来るんだ。しかもお払いをする時には、もう最高に喜んでもらう時があるのだという様な意味の事を、どの人の場合でも頂いとりましたんですよ。後藤先生の話でも、私がもう椛目で、それこそ一万二万の金は、それこそこげんおかげ頂きよると言うて持って行くなら後藤先生方夫妻が本当に喜ばれたに違いないです。ところが或る御本部参拝の丁度今の新斎場がでけております下の坂の所でした。あの時一緒に参った方達は覚えとるかもしれません。丁度あの教徒所の方から登ってこられる後藤先生。私が下らして頂くという時ばったり会った。やあー大坪さん珍しゅう、もう先生、本当にその後大変ご無礼御粗末、ご無礼致しましてと言うて、その挨拶をしてお互い懐かしがって、もう私はその時に限って神様からですね、一万円という金を余分に持って行っとった。私は持って行かないのが主義なんです大体は。もう一万という金を持って行っとった。そこで本当に、こう立ち話しながら本当にあのままご無礼してから「   」ございましたけれども、あのここに幸い持ち合わせがございますから、ここでは本当に失礼ですけどと言うてお返しをした。後藤先生も、それを押し頂く、当てにしてないお金なもんですからちゃーと先生どうも有難うございましたち言うてからですね、お礼言われた。実は明日、あちらは薬院と大橋の間は、あすこは何とか何とか言いますねえ、薬院の次は高宮ね、高宮のまいっちょ先は何ですか、平尾、平尾、平尾です。平尾の教会の総代さんをしておられました、当時。甘木の出社ですね。ですから、あの先生実は何年祭かでしたけれどもですね、あの今年は記念祭でございます。平尾の教会の、どうかして、そのおかげを頂きたいおかげを頂きたいと思うておったけれども何やらかにやらででけなかったが、先生これは本当無傷で、本当先生おかげで御用に立たせて頂きます。と言うて喜ばれました、ねえ。その一万円が最高に効いてきた。これは、あの善導寺の河野さんの場合もそうでした。もう本当に、もうそれこそ私が本当に人非人の様にいえて、汚のう言われた時代がございましたけれども、そん時には、お払いがでけなかったんですけれども、段々お払いがでける様になってまいりました時に、あのあちらの善導寺の教会の色んな問題やら持ってから、まあこっそりと河野さんが見えられた時分、その頃は河野さんのお宅でも非常に困っておられたんです。金は僅かばかり、僅かばっかりというても五万円ばっかりのお金でしたけれどもねえ、それは利、利だけでも、やっぱり十何万か払いました。高利の金ですからね。そういうお金でございますけれども、私は、それにはまず本当に随分お金は、まあ言うならかててあげましたんですけどもですねえ、そのもう取りに見えられるたんべんにですね、私は当時まだ椛目が始まったはなでしたからね、お賽銭箱ひっくり返して持って行ってもらうんですよね。五千円ある時もありゃ壱万円ある時もあるという様な、それに御初穂というものは無かった。椛目ではお賽銭箱だけでした。それを見えるたびに差し上げるんですよ。もう本当に大坪さん助かるち言うてから、言うて帰られました。自分の金を貸してあるんですから、当たり前の事です、ねえ。
 私が今日皆さんに聞いて頂きたいのはですねえ、その辺の事なんですよ。ねえ、たった借っとった金を倍にもして三倍にもして返したという意味でもなからなければ、その人が一番必要な時に私は返したという事が、というのではなくてです、その神の心なのです。実を言うと神心というのは、私も人間心使うなら本当に人非人と言われたくもない、又借ったもんなきちっと持って来なさった。「   」ちゃんと持って来なさったと言われたいのですよ。これが人情なんです。けどもそれは例え、人非人と言われても、より向うの人が助かられる道があるなら、その道を思うたり考えたり、そうさせてもらうことが神心なのです。神心となりて人を助けよねえ。椛目の時代、こちらでも同じですけども随分、まああの当時は村内の近所の方達が、もう本当にどうしてそげなえげつのない事を言うたり、しなさらんなんじゃろうかという事があったんです。村の人達が押し掛けて来てですねえ、もう本当にあの棒にも箸にもかからん様な事を言われる。そういうたんびんに、例えて申しますと、椛目の御広前が、あのお屋敷いっぱーいに建った事があったんですね、道が、ですから、もうこれは家の屋敷に建てておる壁ですから、あの塀ですから問題はないのですけどもですね、それではこちら通って行く時に、向うにゆとりがつかんから危ない。もうそれこそ沢山の金をかけてもコンクリートでしてある事を村内の人達が言うて見えたんですからねえ、それで皆は腹かいとる訳なんですよ。けどもこりゃおかげばいち、私は申しました。そこを取りなさい。折角したばってん「   」やり直しなさい。私共の場合は何時も、そのたんびたんびにおかげ頂いて参りましたねえ。そりゃ、又成程村内の方達に迷惑をかけたんですよね。例えば狭い所に自動車が月次祭ともなるといっぱい並んだですねえ。それでやかましゅう言って見えたんです。だから、駐車場がでけた。おかげで「   」ここんなら、こちらの方買わせて頂こうという様な事になって、段々広がっていったんですから。そのおかげなんですけどもですね、そういう心を神心ですね。孫悟空がお釈迦さまでしたかね、如来様ですかね、に、その自分は一飛で何十里という所を飛んで行けれる街を心得ているという訳なんですよね。もうだから、言わばその宇宙の中に、世界の中に自分の様な素晴らしい者はおらんと言うて自慢した。そんならこれから何千里向うの方に、こういう、その、所があるから、そこへお前一飛び飛んで言ってから印を付けてこいと仰った。得意になって孫悟空は飛んで行ったんですね。そこに自分が来たという印を書いた、ねえ、それから得意になって帰ってきてから見て来てご覧なさい。向うにはちゃんと私の名前が書いてある印が入れてあるというた時に、お釈迦様ですか、如来様が手を開かれた。ところがそのお釈迦様の手のここんところへ書いておるだけであった。自分の一握りに握ってある中にあったというのである。孫悟空としては何千里という所を一飛び飛んで行ったつもりだったけれども飛んで行った中にも、やはりもうお釈迦様の心の中であったという事。ねえ、私を誰が人非人と言おうが「   」風に言おうがです、そういうこれも神様の働きなのだ。私の思いの中にあるのだ。こういう豊かな心がですね、私は神心だと、こう思う。そげん言うちから、そげなお金の事言いなさらんでよかじゃんのと言うて腹かく事もなーもいらんとです。私の心の中に一部の心の中にあるだけなのだ。お互いが目指す、所謂信心ねえ、信心にならなきゃならない。そして神心、所謂神心になっていかなければならない。神心とは、ねえ、それこそ一匹の蜘蛛を殺す事も、にも出来ない。所謂可愛いと思う心、可哀相と思う心、可愛いと思う心が神心じゃという中に、それこそ我情我欲の為に本当に汚い、本当に汚い。けれども人間として、それが当たり前かもしれない。食べる事の為なら人の茶わんを叩き落してからでも食べよう。病気を、という事の為なら人のするような事は問題じゃないという様な我情我欲が渦巻く様な、この中にあってです、私共は神心を求めての信心、ねえ。その我情我欲で言うておるのは、我情我欲で私にぶつかってくるという人がおるとするならです、なんと可哀相な人じゃと、可愛い、これじゃあ、この人が助からん。こういう事を言うておったら、この人の為にならんが、まあ可愛いものじゃと思う心で受ける心が神心なんです。
 ねえ、私、今日その神心という事につきましてですねえ、ただ可愛いと思う心が神心、親切な心、最高至純の心、親切な可愛いという心の中にはです、もう本当に誰ーも知らない気付かない心。本当に、だからそういう心を脇から見ておったら、あの人は人非人じゃなかじゃろうか、それこそ場合によっちゃ、一つの観念じゃ馬鹿じゃなかじゃろうかという様な、もうそれこそとてつもない大きな心。ねえ、借りとる金を払わしてもらうのは当たり前。利がついてきよると事も当たり前。言うならば損とか得とかいう事から言えば、もう早う払ったがましの様だけれどもです、ね、神様は私に、それをおいそれとは払わせなさらなかったけれどもです、私に神心とは、こういうものぞという意味を教えて下さる為に、成程払いになってから、すぐ払うという事はさせられずに本当に、その人が一番助かる時に払わして下さる様な、それは何故か、私に、その時に親切を尽くして下さって、それに対してでも一服のお茶でもです、それに遍く史上に及ぼしていかれる事の為に、私は人から人非人と言われても、それを黙ってこらえるという程しのものでもない。それが神心と思うて平気でおれれるという心が神心。ね、自分がこうしときゃ自分の顔もよか、自分がこうしときゃ必ず人から信用される誉められる。そういう様な場合であってもですね、この人が本当に助かる事の為なら、そんなことなんかは、いや本当に一番助かる道を選ばして頂こうというのが神心。今まで頂いてこなかった神心も深い意味合いに於いての神心。大きい意味合いに於いての神心というものを聞いて頂いた訳なんですねえ。どうぞ神心、神心となりて人を助けるという事は神心となりておること事態が自分自身が助かっておれる事。どういう事言われても、それが平静でおれれるという事は、既に神心。しかもその心で相手を助けていこうという心が神心。ね、どうぞいよいよ神心を目指しての信心でなからにゃいかんのです。どうぞ。